■表記の統一についてかんがえる(2)
――「表記の統一」をかんがえるようになったきっかけ

はなしとしてはとおまわりになりますが、今回は、わたしが「表記の統一」という問題をかんがえるようになったきっかけ、表記の統一から日本語の表記それ自体の問題へと関心をひろげていったきっかけ、についておはなししておきます。

◆「田中克彦」「国家語をこえて」「ましこ・ひでのり」「イデオロギーとしての日本」「感想」などというキーワードで、このページをさがしあてたみなさまへ

このページに、みなさんのもとめる情報はありましたか? もし、みなさんが学生で、レポートなどの参考にするためにこのページを訪問したのなら、私があげている参考文献のいくつかを実際によんでみることをおすすめします。ある本の内容をみなさん自身が“りくつ”で評価するためには、別の本にかいてあることも参考にする必要がありますから(ちなみに、「“りくつ”で評価すること」というのは、「感想」とはちがいます。感じるまえに、かんがえましょう)。

もし、ことばの問題についてまじめに考えてみたいのであれば、いちばんのおすすめは、ましこ・ひでのり『増補新版イデオロギーとしての『日本』』でしょう。よむのに時間がかかる本ですが、知的な刺激にみちあふれています。ただし、読者をえらぶ本でもありますね。竹中労『決定版ルポライター事始』(ちくま文庫 1999年)にならっていうなら、“もし、途中でましこの本をほうり出したら、君は私の友人ではない”、といったところでしょうか。みなさんの発想が、十二分に柔軟であることをねがっています。

1. 「表記の統一」はあたりまえ、という職場

わたしは、通信社の出版部門で、書籍編集者をしていました。通信社というのは、新聞社(県紙やブロック紙、全国紙など)に記事を配信する会社です。

新聞・通信社には、「表記の統一」に関するはっきりとしたルールがあります。各社とも、おおすじではおなじようなルールなのですが、こまかいところではちがいがある。そんなわけで、各社とも独自のマニュアルをつくっていました。ちなみにこのマニュアルは秘密でもなんでもなくて、書店で販売しています。比較的入手しやすいのは、毎日新聞社のものでしょう。みなさんもぜひ、オンライン書店などで毎日新聞社編『改訂新版 毎日新聞用語集』(毎日新聞社 2007年)を実際に購入してみてください。いかにこまかいルールであるかがよくわかります。

私は出版部門の書籍編集者でしたから、社内執筆者の原稿をあつかうときは、こうしたマニュアルにもとづいて原稿をチェックすることがもとめられていました。記者といっても、ふつうの人間なので、表記の統一がきちんとできているとはかぎりません(「てにをは」がめちゃくちゃな原稿もあったりしましたねえ……)。だから、編集者が原稿段階であれこれと修正するわけです。修正作業のことを、赤字をいれる、といういいかたをしていました。

ただ、社外執筆者の原稿をあつかうときは、それほど厳密に表記の統一を適用していたわけではありません。「『表記の統一』についてかんがえる(1)――複数の表記が存在してしまう日本語のかきことば」でもかいたように、個々人の表記は“感覚”にまかされています。社外執筆者の原稿については、そのひとの“感覚”を尊重しつつ、執筆者の了解をえたうえで、

といった修正をしていました。

ちなみに、表記の統一にてまのかからない原稿をあげてくる社外執筆者は、新聞・通信・出版社出身のひとをのぞけば、かなり例外的な存在でしたね。

書籍編集者だったころのわたしは、「表記の統一」ということに、“めんどうだなあ”とか“どうかいても意味はかわらないじゃないか”という感想以上のものはもっていませんでした。「表記の統一」はあたりまえ、という職場だったので、こうした感想以上のかんがえはうかんでこなかった、ということでしょう。

2. 自分で原稿をかくようになったときのとまどい

書籍編集者をやめてフリーランスになったわたしは、英語でかかれたある本を翻訳することになりました。わたしの英語能力からすると“みのほどしらず”ということになるのですが、そのことはとりあえず、わきにおかせてください(笑)。

実際に自分で文章をかいていくときに直面したのが、まさに、あることばをどのようにかきあらわすのか、という「表記の統一」問題でした。

たとえば、「りすとにあげられた」というフレーズをかきたいとき。新聞・通信社の表記の統一ルールにしたがうと、「リストに挙げられた」となります。ところがわたしは、「あげる」ということばにあてる漢字をかきわけるのがめんどうだったのと、かな漢字変換ソフトの変換するままにかいていたこともあって、「リストに上げられた」とかいていました。要するに、自分でかく文章の表記の統一について、あまりふかくかんがえていなかったのです。

この翻訳書の編集者と校正者はとても優秀なひとたちで、こうした表記に対して「かきわけなくていいですか?」と指摘してくれました。指摘されたときは、ちょっとはずかしかったですね。通信社にいて、表記の統一ルールをいちおうしっているはずなのに、こんなかきかたをしていたわけですから。でも、わたしはあえて、「これでいいです」とこたえました。書籍編集者をしていたので、ゲラの段階でいれる赤字はできるだけすくなくしたかった、というのが理由の1つ。もう1つの理由は、表記の統一ルールにこだわってもしかたがない、というめんどうくさがりなばくぜんとしたおもいでした。

その後、パソコン雑誌で実用記事をかくようになったとき、わたしはとりあえず、新聞・通信社の表記の統一ルールにしたがうようにしました。ただ、つかう漢字のかずは、このみによっていくらかへらしましたが。このころのわたしは、「表記の統一」問題に直面して、この問題をかんがえる機会にめぐまれてはいたものの、まだまだ自覚的に(=自分の問題として)かんがえようとはしていなかったのです。

3. 日本語の表記それ自体の問題をかんがえるようになった

そんなライター稼業をつづけるうち、ひょんなことから、ある短大の非常勤講師の仕事がまいこんできました。編集者の仕事の技術的な側面について講義してほしい、という依頼です。原稿の表記を統一する、という作業も編集者のたいせつな仕事ですから、当然、講義でしゃべらなくてはなりません。

そうかんがえたとき、編集者の仕事についてなにひとつしらない受講者に、どうやって表記の統一は必要だと納得してもらえばいいのか、という疑問がうかんできました。職場の同僚であれば、「このマニュアルにあわせて統一して」のひとことですむのですが(特に、新聞・通信社は“体育会系”の組織なので、いちいち理由を説明したりしないのです)、講義の場ではそんな説得力のないことはいえません。「なぜ表記の統一が必要なのか」という根本的な理由をみつけないことにはまともに講義できない、ということになります。

そこでわたしは、ことばに関する基本的な本を、いろいろとよみあさりました。講義をはじめるまえも、はじめてからも。どんな本をよんだのか、おもなものをあげておきましょう(名字の50音順)。

けっきょく、「なぜ表記の統一が必要なのか」という問題にこたえてくれる本とは、いまだにめぐりあっていません。ただ、大久保忠利や田中克彦、ましこ・ひでのりの著作によって、わたしの「ことばに対するかんがえかた」はおおきくひろがった、といっていいでしょう。

かれらの著作からわたしがまなんだのは、「ことばはオトが基本である」「日本語の表記にとって漢字は不要である」というかんがえかた。田中克彦の文章を引用しておきましょう。

文字は、話しことばがそうであるように、なるべく規則の少ない方がよい。なぜなら、長い時間を特別の修行をかけてため込まねばならないような規則は、自由な言語活動に反するからである。(田中克彦「ことばと権力」『国家語をこえて』75ページ)
わたしのこういうたちばからどうしても出てきてしまう文章こころえを記しておきたい。ことばの真の力は、文字の知識に甘えず頼らない、強い精神から生まれる。漢語という便利ではあるが、ことばの力を弱める麻薬からなるべく遠ざかったところでことばをみがくのが理想であると。あえて麻薬への依存をすすめる作家は、ほんとうは力のない、こけおどしの文章家であると。(田中克彦「ことばと権力」『国家語をこえて』76ページ)

田中が上記の文章をかいたのは1984年のこと。それから20年以上がすぎた現在、田中の指摘に賛同するひとが、このくにに、いったいどれくらいいるでしょうか。たぶん、かなりすくないんじゃないかとおもいます。実際、これをよんでいるひとも、「なにバカなことをいってるんだ!」とおこっちゃうひとが大半でしょう。つまり、わたしたちのおおくは、それほどまでに漢字という文字にならされているんです。

現実には、漢字をすぐになくす、ということはできそうにもありません。なぜなら、ましこが指摘するように、漢字の知識は「文化資本」であり、漢字をたくさんしっていることはえらいことだ、という合意が、このくにの社会には存在するから(この点についてくわしくは、ましこ・ひでのり「現代日本語における差別化装置としてのかきことば」『社会言語学』第2号 社会言語学刊行会 2002年を参照)。

また、2004年9月27日に改正された戸籍法施行規則では、人名用漢字が大幅に追加されています。従来の人名用漢字290字にくわえて、新しい人名用漢字488字、常用漢字の異体字205字を追加して、人名用漢字としては全部で983字になりました(人名用漢字は、戸籍法施行規則の「別表第2」にあげられています。くわしくは、総務省行政管理局の「法令データ提供システム」から「戸籍法施行規則」という法令名で検索してください。別表第2は、画像ファイルとして見ることができます)。こうした例からもわかるように、このくにでは“漢字をたくさんつかおう”という風潮がたかまっています。

おそらく、とおい将来であっても、日本語の表記から漢字をなくすことはできないでしょう(それでもわたしは、漢字をなくすべきだとかんがえています。このことは強調しておきましょう)。だとしたら、“漢字をなくせない”現実のなかで、日本語の表記を、さらには表記の統一を、具体的にどうしていけばいいのか……。

こんなふうに、「ことばに対するかんがえかた」がひろがったのはいいのですが、そもそものはじまりであった「なぜ表記の統一が必要なのか」というといへのこたえは、いまだにはっきりとはわかっていません。いくらかノスタルジックないいかたをすれば、いまのわたしは、“日本語の表記の問題について全面展開をもとめられている”ような状況にあるわけです。