■表記の統一についてかんがえる(3)
――新聞・通信社でつかわれている漢字

みなさんのほとんどは、「日本語は『漢字かなまじり』でかくのがあたりまえ」とかんがえているはずです。でも、「表記の統一についてかんがえる(1)――複数の表記が存在してしまう日本語のかきことば」で指摘したように、漢字こそが、日本語のかきことばにたくさんの表記を生み出している原因でした。漢字は、表記の統一をさまたげるとてもやっかいな存在なんですね。

それでは、表記の統一にこだわっている新聞・通信社では、こうしたやっかいな漢字をどのようにあつかっているのでしょうか。今回は、新聞・通信社でつかわれている漢字についておはなししましょう。

1. 新聞・通信社では「常用漢字」がとりあえずの基本

新聞・通信社では、つかう漢字を“基本的に”「常用漢字」(じょうようかんじ)の範囲内としています。

常用漢字とは、1981年10月1日に内閣告示された「常用漢字表」(内閣告示第1号)のこと。常用漢字表には「本表」と「付表」があって、本表には1945字の常用漢字とそのよみかた(音と訓)が、付表にはあて字や熟字訓(じゅくじくん)が、それぞれしめされています。熟字訓とは、漢字の熟語全体に日本語の訓よみをあてたもの。「昨日」を「きのう」とよむのが熟字訓です。常用漢字表の全文は、文化庁の「常用漢字表」のページでみることができます。

新聞・通信社は、こうした常用漢字表をいちおうの基準としているのですが、すべての常用漢字を使っているわけではありません。また、常用漢字以外の漢字もつかっていい、としています。さきほど“基本的に”とかいたのは、これが理由。各社の用字・用語集をみればわかるように、新聞・通信社の漢字のつかいかたに関するルールは、じつにこまかくきめられています。

てもとにある毎日新聞社編『改訂新版 毎日新聞用語集』(毎日新聞社 2007年)から、漢字のつかいかたに関するルールの“ほんのさわり”を紹介しておきましょう(同書9、399〜408、409〜419、424〜425ページ)。

まあ、なんというか、例外だらけのこまかいルールですよね。でも、これだけでは実感がわかないかもしれませんから、具体的な例をあげておきましょう。以下の文を、みなさんならどんなふうにかきますか?

おそらく、ほとんどのひとが「日頃からネット上の文章を貼り付けて箇条書きにしていた」とかくでしょう。しかし、「頃」「貼」「箇」は常用漢字ではありません(ついでにいっておくと、マイクロソフト日本法人をはじめとするほとんどのソフト会社は、常用漢字をまったく無視していることがわかります)。したがって、新聞・通信社では、つぎのようにかきます。

では、つぎの文はどうでしょう?

これも、「『俺達は友達じゃないか』と友人達は言った」とかくひとがほとんどでしょう。でも、「俺」は常用漢字ではありません。また、「達」は常用漢字ですが、よみかたとしては「タツ」しかあげられていません。ただし、常用漢字表の付表には「友達」があげられています。したがって、新聞・通信社では、つぎのようにかきます。

これだけのこまかいルールをきめないと、「漢字かなまじり」の日本語では、表記の統一ができないんですね。表記の統一にとって、漢字がいかにやっかいな存在であるかがわかるでしょう。だからこそ、新聞・通信社ではむちゃくちゃぶあつい用字・用語集をつくって社内に配付し、ついでに市販もしているわけです。

2. つかう漢字をふやしている新聞・通信社

例外のないルールはありえないのかもしれませんが、ルールをつくる以上、例外はできるだけすくなくするべきでしょう。新聞・通信社の漢字のつかいかたに関するルールから例外をすくなくする方法は、2つあります。

新聞・通信社が採用したのは、(1)の方法でした。『毎日新聞』1999年5月11日朝刊の「メディア 時代に即し、漢字制限を緩和――毎日新聞社の試み」という記事では、こんなことをかいています。

「新聞記事は常用漢字で書く」という原則は、現行の常用漢字表が告示された1981年以来、日本新聞協会に加盟するほとんどの新聞社が歩調をそろえて維持してきた。しかし、この18年間で漢字をとりまく社会的環境が変わり、必ずしもそれが適切とはいえない状況になってきた。このため毎日新聞は今回、「分かりやすく、役に立つ新聞」をめざす立場から改革の先べんをつけた。
最近のワープロ、パソコンの急速な普及などで文書や出版物に表外字が多用され、表外字の一部は多くの国民に身近なものになった。新聞各社には「こんな字を仮名で書くと、かえって分かりにくい」といった意見が寄せられるようになった。「常用漢字表」が古くなったのだ。
各社の記者の中からも「文章の表現を豊かにするため、日本文化の所産である漢字の制限枠をもう少し緩めるべきだ」という声が高まってきた。しかし、肝心の国語審議会は、常用漢字の見直しに腰を上げようとしていない。そこで毎日新聞は独自に、このような社会的環境変化の中では一定の表外字を積極的に使用すべきだと判断し、東京編集局用語委員会で具体策を検討した。

結果として『毎日新聞』では、常用漢字以外の37字と、常用漢字表のよみかたできめられていない表外訓2――を1999年5月1日からふりがな(ルビ)つきで使用することになりました。そして、(1)の方法は、『毎日新聞』だけではなく、新聞・通信社全体にひろがっていきます。日本新聞協会は2001年11月、記事でつかう漢字を39字ふやしました。それまでは「亀、舷、痕、挫、哨、狙」の6字だけだったのですが、39字ふやしたことで、合計45字の漢字が記事でつかえるようになりました。

「つかう漢字をふやすことで例外をすくなくする」方法の根底には、「まぜがきはいやだ」という“感覚”があります。『毎日新聞』の記事にはこんな例文があげられていました。

まぜがきとは、漢字の熟語をかくときに、漢字とひらがなをまぜること。この例文でいえば、「やみ夜」「ふじ棚」「きん糸卵」「焼ちゅう」――が、まぜがきにあたります(引用した記事の本文でいうと、「先べん」もまぜがきです)。記事でつかう漢字は常用漢字(+α)の範囲内、というしばりがあるため、こうしたまぜがきが発生するんですね。

例文に対する記事のコメントは、「文意はともかく、字面だけ見れば、仮名だらけで読みにくい」というもの。みなさんはどうですか? わたしはそれほどよみづらいとは感じませんでした。もっとも、2番目の例文にかいてある料理は、まずそうだなあ、とおもいましたが(笑)。ちなみに、例文中の「かき」は、くだもののカキ。こんなかきかたをするよりも、「もち・くだもののカキをなべでいため、はちみつをかけて食べる。さらにキンシタマゴをそえると、ショウチュウにあう」などとすれば、ずっとよみやすくなるでしょう(まずそうな印象はかわりませんが……)。

それはともかく、「つかう漢字をふやすことで例外をすくなくする」方法は、“感覚”に“りくつ”(論理)をしたがわせる方法です。したがって、「この漢字がはいっていないのはおかしい」というあらたな感覚に対するはどめをもちません。限度なく漢字をふやすことにもなるでしょう。新聞・通信社の記事は最終的に、ほとんど「万葉がな」にちかいような漢字だらけの文章になっていくかもしれません(読者の問題があるので、現実には、そこまでエスカレートしないとはおもいますが)。

3. “りくつ”に“感覚”をしたがわせること

わたしは、「つかう漢字をふやすことで例外をすくなくする」方法はダメで、(2)の「つかう漢字の数をきびしく制限することで例外をすくなくする」方法にすべきだった、とかんがえています。こちらの方法は、“りくつ”に“感覚”をしたがわせる方法。新聞・通信社はせめて、つぎのようなルールにすればよかったんです。

この方法だとまぜがきが発生しますが、まぜがきは許容しましょう。「征夷大将軍」を「征い大将軍」、「歌舞伎」を「歌舞き」……とかいたところで、意味がかわるわけではありませんから。また、よりおおくのひとによんでもらうためには、むずかしい(よみかたのわからない)漢字はつかわないほうがいいでしょう。だれもが自分とおなじように漢字がよめるとはかぎりませんからね。

どうしてもまぜがきがいやなら、部分的にでもかながきにすればいいでしょう。たとえば、「征夷大将軍」は「せいい大将軍」に、「歌舞伎」は「かぶき」に。また、べつのことばにいいかえられるのなら、いいかえればいいでしょう。たとえば、「先べんをつける」を「ほかよりさきにはじめる」とするように。

でも、新聞・通信社のひとたちは、“りくつ”に“感覚”をしたがわせようとはしませんでした。自分たち自身の“感覚”に、漢字のつかいかたに関するルール(“りくつ”)をしたがわせてしまったんですね。

ムリもないことだろうとおもいます。田中克彦はかつて、こんなことをかいていました。

言語の議論がはてしなく続くむずかしい点は、それが多くの部分で、慣れと習慣にかかわってくるからである。習慣は、それがどんな悪習であれ、それに従っているかぎりは、人に安らぎを与え、こころよくさせる面がある。ことばの議論には、この習慣じたいを相対化し、習慣の専制から脱出するための精神的な冒険が要求される。(田中克彦「ことばと権力」『国家語をこえて』ちくま学芸文庫 1993年 75ページ)

新聞・通信社のひとたちも、「精神的な冒険」ができなかったんでしょう。そして、かれらが「漢字のつかいかたに関するルール」で“感覚”を優先させたことは、そのルールにもとづく「表記の統一」についても“りくつ”ではかんがえていない、ということをそれとなくしめしています。いやみないいかたをすれば、新聞・通信社のひとたちにとって、「表記の統一」は、単に「統一するから統一する」という習慣のようなものなんでしょうね。

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「表記の統一」について新聞・通信社があてにならないことはわかったとはいえ、わたし自身はあいかわらず、「なぜ表記の統一が必要なのか」という問題をかんがえつづけています。そんなわたしにとって、野村雅昭による新聞・通信社へのきびしい批判(野村雅昭「漢字に未来はあるか」前田富祺・野村雅昭編『朝倉漢字講座 第5巻 漢字の未来』朝倉書店 2004年)は、とても興味深いものでした。ちょっとながくなりますが、貴重な意見なので引用しておきます。

 けっきょくのところ、新聞界は「常用漢字表」を邪魔者視している。できれば、廃止してしまいたいのだ。近代以来、新聞は一貫して漢字制限の積極的な推進者だった。それがここへきて、このような変節をとげようとしているのは、ワープロ入力・コンピューター製版による紙面の作成により、かつての活字印刷のような手間がはぶけるようになったからにほかならない。
 新聞がかかげていた漢字制限の理由には、そのほかにも、義務教育修了者でもよめる文章の作成、簡易な表現による万人に理解可能な日本語の形成などがあったはずである。それが、経営効率の上から漢字がそれほど負担でなくなったとたんに、てのひらをかえすように方針をかえようとしている。青少年の活字ばなれ・新聞ばなれがいわれるようになってからひさしい。新聞界も、青少年を読者としてよびもどすキャンペーンをつい最近までおこなっていたはずである。もはや若者には見切りをつけ、漢字のすきな高齢者だけを対象に、割高な価格で採算をあわせようとするのだろうか。いずれにしても、その志のひくさには、あきれるほかはない。(『朝倉漢字講座 第5巻』225ページ)

「義務教育修了者でもよめる文章の作成、簡易な表現による万人に理解可能な日本語の形成」という指摘は重要です。要するに、「わかりやすい」文章、ということ。野村の指摘をよんで、「表記の統一」は「わかりやすさ」との関連でもかんがえていく必要があるんじゃないか、とふいに気がつきました。「表記の統一」をめぐる思索のたびは、まだまだつづきそうです。いつまでつづくのか、さだかではありませんが(笑)。

【付記】
小池民男「新聞と漢字」(前田富祺・野村雅昭編『朝倉漢字講座 第4巻 漢字と社会』朝倉書店 2005年)にも、まぜがきへの感覚的な批判がありました。小池は朝日新聞社編集委員です。

 新聞に話を戻せば、大きな流れとしては、読みやすさ、わかりやすさを追求してきたといえるだろう。難しい漢字をできるだけ使わないという方針を大まかには維持してきた。大正時代の「漢字制限宣言」を経て、戦後の当用漢字時代にはその動きは加速した。振り返ると、「制限漢字撲滅運動」ふうで、少々行き過ぎの感もあった。漢字が少なければ読みやすいのか。あるいはわかりやすいのか。掘り下げて考えると、そう簡単ではない。たとえば、交ぜ書きを例にとればわかりやすい。かつては「拉致」を「ら致」と表記していた。違和感があるだけではなく、文章上の位置によっては極めてわかりにくいことがある。制限漢字、表外字というだけで全面使用禁止にしていたことへの批判は常にあった。また、自在に言葉を操りたい、という文筆家からの不満や、自分の名前を新聞に勝手に変えてほしくない、という人たちの声にも耳を傾けざるをえなくなった。(『朝倉漢字講座 第4巻』107ページ)

このくにには、たくさんの時間をかけて漢字の知識をためこめんだひとだけが、漢字を自由にあやつれる、という現実があります(漢字の知識=文化資本)。しかし小池は、そうした現実には気がついていないんでしょうね。個人的な体験でいってしまえば、「新聞記事は漢字がおおくてよみづらいし、かいてあることもわけがわからない」と感じている大学生は、けっしてめずらしくはありません。もちろん、そうした大学生ばかりではない、ということは十分に承知していますが。

「よみづらい」「わからない」といっているひとたちに、どうやって情報をとどければいいのか。こうした方法論が、いまのマスメディアには決定的に欠落しているんじゃないか、とわたしはかんがえています。もっとも、現在のこのくにの風潮からすれば、そんなことはかんがえる必要のないことなのかもしれませんが。