■『ハード・タイム』の翻訳チェック

サラ・パレツキー『ハード・タイム』(山本やよい訳 早川書房 2000年、ハヤカワ文庫 2004年)には、かなり重大な誤訳があります。私は、単行本の時点で気がついて、このウェブサイトで指摘しておきました。この作品はその後、文庫本になりましたが、あいかわらず誤訳は修正されていません。まだまだこのページの存在意義(?)もありそうですね。

パレツキーの翻訳を手がけている山本やよいは、1982年の『アニー』(リアノー・フライシャー ハヤカワ文庫)でデビュー。オンライン書店、bk1(ビーケーワン)で「山本やよい」を検索すると、85件がヒットします(2005年10月30日現在)。もはやベテランといってもいい翻訳者でしょう。訳文はけっしてなめらかではありませんが、さほど読みづらくもなく、水準以上には達しています(最低限の翻訳能力しかもたない私がこんなことをいうのは、かなりおこがましいんですが)。

おまけに早川書房であれば、外部リーダーが原稿段階で、訳抜けや誤訳などを徹底的にチェックしているはず。にもかかわらず、以下に示すような誤訳が生まれてしまうんですね。だから翻訳はむずかしい……といってもいいのかもしれませんが、この程度の誤訳は編集者がチェックすべきだろう、と私は考えています。なぜなら、事実をきちんと調べればすぐにわかるような誤訳だから。

それでは、実際の誤訳例を見ていきましょう。

【事例1】
原文the real audience was Emily and her teenage friends, who slavishly copied Lacey's hairstyle, her ankle boots with their crossed straps, and the high-necked black tank tops she wore off the set. (p. 4)
訳文じっさいの観客はエミリーや十代の友人たちで、レイシーの髪型や、ストラップの交差したアンクルブーツに黒のハイネックのタンクトップという、ふだんの彼女が着ているものを盲目的にまねている。(単行本=14ページ上段〔文庫本=18ページ〕。以下、〔 〕内のページ数は文庫本のもの)
試訳ふだんの彼女が着ているものを考えもなしにまねている。

■解説:レイシーは、テレビドラマシリーズ『ヴァージン』の主演女優。このシリーズは「似非(えせ)フェミニズムの色づけがしてある」(14ページ上段〔18ページ〕。「えせ」はルビ――引用者注)作品で、話者であるヴィクはあまりよく思っていません。でも、エミリーはレイシーに夢中。まったく困ったものだなあ……というのが、この一文に表されたヴィクの思いです。

『電子ブック版リーダーズ+プラス』(研究社 1996年)には、slavishの訳語として「盲目的にまねた[模倣した]」が挙げられています。したがって訳文はまちがいではないのでしょうが、私は、以下の理由から「盲目的」を採用しません。

盲目であることを「理性を失い分別を欠くさま」(『広辞苑第五版』岩波書店 1998年)と結びつける「盲目的」は、「マイナスイメージの比喩」です。すなわち「例として取り上げたもの(ここでは盲目)をおとしめることで説明する」というしくみをもっています。したがって「盲目的にまねている」は、“目が見えないととかく物事の善し悪しがわからなくなるもの。エミリーも同じように、レイシーのことを夢中になってまねしている”――という説明の構造を否応なくもってしまうんですね*。

しかし訳者には、「盲目」を引き合いに出すつもりなどなかったでしょう。もちろん話者であるヴィク(=パレツキー)にしても、そんな意図はあるはずもない。であれば、もっとニュートラルな訳語をあてるべきでしょう。したがって私は、「なにも考えずに」とか「考えもなしに」といった訳語を採用すべきだった、と考えています。

*この部分の議論の参考としたのは、曹洞宗宗務庁編『差別語を考えるガイドブック』(解放出版社 1994年)。特に「Chapter11 教典・祖録などにみられる差別語」(277〜305ページ)。

現実には、「マイナスイメージの比喩」であることがほとんど意識されなくなった、ということばもあるだろうし、「盲目的」などまさにその典型、と考える人もいるだろう。しかし私は、あることばがマイナスイメージの比喩であるかどうかについて、できるだけ慎重に評価したい。

ちなみに、遠藤織枝『視覚障害者と差別語』(明石書店 2003年)には、視覚障害にかかわる差別語を視覚障害者自身がどう感じているか、というアンケート調査の結果が掲載されている。この調査は、遠藤が2000年6月末から9月末にかけて行ったもの。点字606部、墨字210部の調査票を配布し、回答者は234人(回収率28.7%)。調査には、「盲目的」ということばに対してどう感じるか、という質問があり、回答は「さしつかえない」45.3%、「避けたい」28.6%、「絶対に言わない」13.7%、「わからない」7.3%、「その他」0.4%、「無回答」4.7%――となっていた(同書63ページ)。盲目的を容認する(「さしつかえない」)回答者が45.3%、拒否する(「避けたい」「絶対に言わない」)回答者が42.3%で、容認のほうが多い。ただ、容認と拒否の差は3ポイントにすぎないから、「盲目的」は視覚障害者にとって差別的な意味合いはうすれている、などと結論することはできないだろう。調査項目にあるほかのことば(たとえば「めくら」「めくら滅法」「めくら判」)などよりは、当事者にとって差別的な意味合いはうすい、という結論がみちびきだせるだけだ。

【事例2】
原文I tried to sound reasonable, not like an irritable old leftist. (p. 70)
訳文わたしは短気な老いぼれ左翼ではなく、理性的な人間らしい口調を心がけた。(68ページ下段〔103ページ〕)
試訳わたしは怒りっぽいかつての左翼ではなく、……。

■解説:「an irritable old leftist」は左翼一般を指しているのではなく、アレグザンドラ・フィッシャーをあてこすった言い方でしょう。ヴィクとロースクールで同級だったフィッシャーは、「教授たちから“民衆扇動家”と呼ばれていた」(40ページ上段〔58ページ〕)。しかしフィッシャーはその後ハリウッドへ行き、「名前を変えて――自分の政治信条にメスを入れてしまった」(40ページ下段〔59ページ〕)。こうした記述がある以上、「老いぼれ左翼」ではなく、「かつての左翼」とか「昔の左翼」などとするのが正解ですね。

【事例3】
原文the time they'd delivered her to Beth Israel (3:14 A.M.) (p. 142)
訳文ベス・イスラエルに運びこまれた時刻(午前三時四十分)(128ページ下段〔196ページ〕)
試訳ベス・イスラエルに運びこまれた時刻(午前三時十四分)

■解説:これは、誤訳というよりは単純なミス。なぞ解きに必要な時刻ではないので、あまりこだわることはありませんが……。もっとも、訳者は原書の原稿(またはゲラ)を見て訳しているはずなので、原書の(あるいは訳書の)校正ミスかもしれません。

【事例4】
原文When I told her about Morrell, Lotty went into her study, and brought out a copy of Vanishing into Silence, his book on the Disappeared in Chile and Argentina. (p. 163)
訳文モレルの話をすると、ロティは書斎へ行って『沈黙の中に消える』という本をとってきた。チリとアルゼンチンで姿を消した人々をテーマにした彼の著書だ。(146ページ上段〔222〜223ページ〕)
試訳チリとアルゼンチンの行方不明者(軍事政権によって弾圧され行方がわからなくなった人々)をテーマにした彼の著書だ。
【事例5】
原文I read a little of Morrell's book on the Disappeared in south America, streching my legs between clean sheets to pull the kinks out of my spine. (p. 191)
訳文背骨のこわばりをほぐしたくて、清潔なシーツのあいだに両足を伸ばし、南米で失踪した人々に関するモレルの著書をすこし読んだ。(169ページ上段〔258ページ〕)
試訳南米の行方不明者に関するモレルの著書をすこし読んだ。

■解説:別にどうということのない訳文ですが、知っている人が見れば「?」と引っかかるはず。「姿を消した人々」と「失踪した人々」は、原文ではどちらも「the Disappeared」。「チリとアルゼンチンで」(in Chile and Argentina)、「南米で」(in South America)と限定されていることを考えれば、パレツキーがなにを思い描いているかあきらかです。そう、「the Disappeared」は、1970年代のチリやアルゼンチンの軍事政権によって拉致され行方不明になった(実態は虐殺された)人々=「デスアパレシードス」を意味しているんですね。だから「姿を消した人々」とか「失踪した人々」と訳語をわけずに、「行方不明者(軍事政権によって弾圧され行方がわからなくなった人々)」―― などと(できれば注書きも入れて)訳すのが正解です。

【事例6】
原文But the ones Trant could get all had a label reading Made with Pride in the USA, a kind of Arbeit macht frei label we had to sew into the necks of the T-shirts we made. (p. 428)
訳文トラントが手に入れられるTシャツはどれも、“誇りをもって合衆国で製造”とかかれたラベルがついてたの。つまり“労働力は無料です”(アルバイト・マハト・フライ)といってるようなラベルでね、刑務所で作ってるTシャツの襟首にはそれを縫いつける決まりになってるの。(360ページ上段〔557ページ〕。「アルバイト・マハト・フライ」はルビ)
試訳つまり“労働は自由への道”(アウシュヴィッツ絶滅収容所の入り口に掲げられていたスローガン)といってるようなラベルでね、……

■解説:「ARBEIT MACHT FREI」は、アウシュビッツ絶滅収容所の入り口に掲げられていた有名な、そしてきわめて欺瞞的なスローガンです。英語に直訳すると“Labor makes free.”machtは「力」という意味の名詞ではなくて、動詞(machen)です。このことばには、「労働は自由への道」という定訳があります。『ハード・タイム』中の女性専用拘置所兼刑務所「クーリス」での労役を、絶滅収容所での強制労働に見立てて皮肉っている一文なので、正しく訳して、ついでに注もつけないと意味が伝わりません。

ポーランドのオシフィエンチムに開設されたアウシュビッツ収容所は、ナチ・ドイツが作った収容所のなかでも最大の規模をもっています。「労働は自由への道」というスローガンは、被収容者たちに“強制労働に従事すればやがては解放される”という幻想を与えましたが、実際には“死ぬまで働かされる”のがつねでした。ナチ・ドイツ敗戦までに、アウシュビッツでは125万人以上の被収容者が殺害されています。

なお、ヴィクがマディスン・バラダインに向かって言うセリフ「そのうち、ドクター・メンゲレも自慢できる子になりそうね」(239ページ上段〔367 ページ〕)のヨーゼフ・メンゲレも、アウシュビッツに関係があります。「死の天使」として知られるメンゲレは1943年、アウシュビッツ第2収容所(ビルケナウ収容所)の主任医師となり、各種の人体実験を行っています*。

*ナチ・ドイツによるユダヤ人虐殺については、マイケル・ベーレンバウム 芝健介監修 石川順子・高橋宏訳『ホロコースト全史』(創元社 1996年)を参照。

【事例7】
原文Congressman Blair Yerkes (R-Ill.) has called ... (p. 449)
訳文ブレア・ヤーキス下院議員(イリノイ州在住)は、……(375ページ上段〔580ページ〕)
試訳ブレア・ヤーキス下院議員(共和党イリノイ州選出)は、……

■解説:これはちょっと致命的なまちがいかもしれません。「R」は「Republican」(共和党員)の略、「Ill.」はイリノイ州の選挙区から選出された、という意味です。ニュース記事を見慣れていれば、こんなまちがいはしないはずなんですが。

【付記1】
『ハード・タイム』には設定上の欠陥があります。女性専用の拘置所兼刑務所「クーリス」で虐待されたニコラ・アギナルドの人物設定です。

ニコラね、英語があんまりしゃべれなかったの。スペイン語をちょっとだけ。でも、ほんとの言葉はタガログ語だったんだよ。ほら、フィリピンでしゃべってる言葉。ニコラはそこからきたんだ。(79ページ下段〔120ページ〕)

原書の編集者をふくめて、だれも指摘しなかったのでしょうか。フィリピンの公用語はピリピノ語(タガログ語をベースとした共通語)と英語。したがって、フィリピンからアメリカに来た女性が英語をあまりしゃべれなかった、しかも英語よりもスペイン語のほうが達者だった、という設定は説得力に欠けるものでしょう。

【付記2】
以前のコンテンツの「翻訳チェックを読む人へ」と「『ハード・タイム』をチェックする」を統合して、書き直しました。